スーパー違和感

「僕、自分で言うのもなんですけど、2004年の天木さん、ベイカー・ブラザーズ以降、“プチ達観”しはじめてる。完全な達観では全然なく(笑)。
2004年度以降は、自分と違うテイストをわざと作品に盛り込んだり、プログラムに入れたりしてきたんです。 たとえば冒険家がグリーンランドを冒険するという映像を15分間、自分の作品の合間に見せたりとか。そういう公演の流れをつくってみたり、ステージ美術をやったことがない家具デザイナーとか建築家に協力してもらって今回はステージセットをつくってもらうんですが、そういう方たちに入ってもらうとか。今回は11人のジャズのフルバンドがスケルツォの映像に音楽をつけていくし。だから僕らも入れて、総勢17名のナレーターと演奏家たちがスケルツォの映像に効果をつけていくんです。」
−二本立ての組み合わせとしても異質な組み合わせだし、スケルツォ自身の公演の中でも「え?」というのを盛り込むと。
「え?という感じを盛り込むというのが、11人編成のバンドかもしれないし。生演奏を盛り込むというのは、スケルツォの中でも異質ですね。また、会場の Zepp Sapporo というキャパシティというのも全く異質なものだし。
今回のキーワードが“スーパー違和感”です。違和感を越えるという。それがさっき言った“プチ達観”というか。自分の中では成熟したスタイルというのがあって、全く異質なものを自分のステージパフォーマンスに呼び込む。その結果どうなるのか、はじめるまでわからないという不安定要素を1個入れておく。そうすると絶対に意味が出てくるんです。 」

「絶対に。見に来てくれる人にも、おのおのの中でも、ものの見方はあると思いますし、パフォーマンスしている自分の中でも、きっちり “あ、やるべくしてやったんだな” というのが見えてきます。
たとえば僕が海外に行ったときに、毛布にくるまって自転車を運転したおじいちゃんがいたんですね。あるときに子ども用のリュックサックを背負って通勤しているサラリーマンがいたんです。その両方のシチュエーションとも、ぼくはプッと笑ってしまったんですよね。でもその町に住んでいるひとたちは、ただ普段の光景としてそれを見ていたんです。だれも指をさして笑うような空気ではなかった。
それはなんでだろうと考えたら、もしかするとモノの本質的な見方にかえってみると、毛布にくるまっているのはただ風から身を守るため。子供用のリュックも、その小ささが便利だから。
そう見てみると、最初もっていた“違和感”が、飛んでしまうんです。パッと見、われわれの価値観からすると違和感があって笑いを誘ってしまうものでも、ちょっと視点をずらすことによって使って当たり前のものというか、正しく使っているものとしてとらえることができるんです。そうすると、ベイカー・ブラザーズもスケルツォも Zepp Sapporo も、全然異質なものの集まりですが、なんかこう浮かび上がってくる根っこの部分がありそうなんです。
それが“スーパー違和感”で、違和感を超えると本質的なものに気づくことができるんじゃないかと。
もちろん、テキトーな人選をやっているわけではないので、自信をもって見せることのできる音楽とパフォーマンスだからこそ、組み合わせられるんです。2004年以降のゲスト出演にしても作品を公開するにしても、自信をもって組み合わすことができるから、後から見ると意味のある組み合わせができている。その結果どうなるかは、まだ見えない状態でやるんですけどね。」
−2004年以降異質なものとの組み合わせをあえて取り入れてきたことで、加賀城さんの中での確信が育ってきたんですね。
「そうですね。でもさすがに、毎度毎度、予想できないので不安は不安ですけどね。でも、その不安定要素が、パフォーマンスする側にとって面白さであるし、見てくれるみなさんにとっても面白いことなんじゃないかと思います。」

「はい。でもこのスタイルが、広がりにくさでもあるんですけどね。 誰もが一目瞭然というわけではないですよね。説明を聞くだけで、ああ面白そうと思わせることができるのであれば、もうちょっとマスにうったえていたと思います。ところが未だに、メディアに出ても説明に時間を必要とする。“活弁士のようなナレーターがいて、映像があって音楽も生で出すんです、これがスタイルで” というところから始まるので。」
−バンドです、とか一言でわかる言い方がない。
「ジャズやってます、とかね。そういう感じでは言えない。でもそこが面白いところでもあって“スーパー違和感”を自分たちに課しているんですよね。未だにメンバーに怒られますもんね、スケルツォのことを説明したいんだけど、なんて説明したらいいのって(笑)。そこもまた、してやったりだと思うんですけどね。」
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